「陶芸の先生が授業の初日に、教室をふたつのグループに分けると発表しました。そして教室の左側半分の学生は作品の「量」によって、一教室の右側半分の先生には作品の「質」によって、それぞれ成績がつけられることが言い渡されました。」

量グループ:制作した陶器の総重量で成績をつける。数は何点でもOK。重いと高成績。
質グループ:制作するのは1点だけ。1点の質で評価される。

量グループ、質グループで提出されたすべての作品を、質で並べ直したところ、最高と評価された作品はどれも量グループから出たものだったそうだ。量のグループは山のように作品を制作しつづけたことで、失敗から学んだ。質グループは完璧さにこだわり、理屈をこねたりするばかりであった。

 気仙沼から帰ってきた友人のメールに、
 こんなことが書いてありました。
 
 <気仙沼の夜の飲み会で、隣りに座った
  Aさんの娘さんと話をしていた時、
  僕が「今、何をしたい?」と何気なく聞いたところ、
  「そろそろ、コーヒーでもゆっくり飲みながら、
   女友だちと恋バナとか、したいな」
  という話をされていたのが、生々しく、
  そして、なんだか、ぐっと来たのを覚えています。>

 友人がぐっと来たように、ぼくにもぐっと来ました。
 ご本人の気持ちだから、想像するしかないのですが、
 どれだけ明るくやってきていても、
 どんなに前向きにやっていて、手応えを感じていても、
 やっぱり、被災地では、
 「なにか役に立ちそうなこと」が優先されていて、
 「日常のあたりまえのことなんだけれど、
  後まわしにされてしまうこと」は、
 ちょっとずつ後回しになってしまうものでしょう。

 そういうものなんだとわかっているけれど、
 「コーヒーでもゆっくり飲みながら、恋の話でも‥‥」
 ということを、地元の人たちは、
 どうでもいいことだとは思っていない。
 大事なことだと思ってるんだ、という旋律が、
 このなにげない会話のなかに、響いています。

「ああ、死にたい…」って毎日のように言ってる人よりも「毎日がもう楽しくて仕方がない!」って言っている人の方が「こいつ頭大丈夫か」と思ってしまう不思議な国、それが日本です。

たとえば英語やギリシャ語の文法は現在と未来を明確に区別している。そのため英語やギリシャ語を話す人は将来をずっと先のことのように感じてしまい、長期的な見通しや動向を無視してしまう傾向があるのだという。逆にドイツ語の場合現在と未来の境目がより曖昧なため、ドイツ語を話す人は将来がより目前に迫っていると感じられるとのこと。実際に統計上、英語やギリシャ語を話す人は貯蓄下手で肥満の人が多く、ドイツ語を話す人は貯蓄残高で勝っており肥満の人も少ないのだそうだ。

「\( ‘ω’)/何名様ですか」「✌(‘ω’)(‘ω’)」
「\( ‘ω’)/おタバコはおすいになられますか」「(‘ω’乂)(‘ω’乂)」
「∠( ‘ω’)/こちらの席へどうぞ」「\(‘ω’ )/\(‘ω’ )/」

えー、いままで100回以上聞かれましたので診療上の秘密にはならないと思いますから言いますが、「この子は一回注意したことができない」という相談を腐るほど受けましたが、子どもどころか大人でも「一回注意したらできるようになる」天才は、目撃したことがありません。